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羽生善治(はぶ よしはる、1970年9月27日 - )は、将棋棋士。現在、4冠(名人、棋聖、王座、王将)。通算タイトル獲得数は歴代2位で、6つの永世称号(永世名人(十九世名人有資格者)・永世棋聖・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世王将)を保持している。永世竜王獲得もあと1期と迫っている。二上達也九段門下であり、棋士番号175である。数々の実績から将棋史上最強格の棋士の一人に挙げられる。羽生と同世代の棋士にはトップクラスの実力者が多く、「羽生世代」と称されている。
デビュー、そしてスターダムへ
デビュー直後の1986年度に、全棋士中で1位となる勝率(0.741)を記録し、将棋大賞の新人賞を受賞する。
羽生に追随してデビューしてきた同年代の強豪棋士達とともに、いわゆる「チャイルドブランド」[6]と呼ばれる新世代のグループを形成し、羽生は、その代表的存在として勝ち進む。
羽生を一気にスターダムへ押し上げることになったのは、五段時代の1988年度のNHK杯戦である。大山康晴、加藤一二三、谷川浩司(準決勝)、中原誠(決勝)と、4人の名人経験者を立て続けに下して優勝。まるで作ったかのような舞台設定で、これは多くの将棋ファンに対して羽生という棋士の存在を強烈に印象付けた。特に対加藤戦で放った▲5二銀は非常に有名であり、解説役で出演していた米長邦雄も驚嘆していた[7]。同年度は対局数、勝利数、勝率、連勝の記録4部門を独占(80局、64勝、0.800、18連勝)。4部門独占は、その後も他の棋士が達成していない大記録であり、また、将棋大賞の最優秀棋士賞を史上最年少(18歳)で受賞した。無冠の棋士が受賞したのも、史上初である。
1989年、タイトル戦初登場となる第2期竜王戦で初代竜王島朗から奪取し、史上最年少タイトル記録(当時)となる19歳2か月で竜王位に就く[8]。この年度は、先手番での勝率が9割を超えた[9]。
翌年11月に谷川に敗れ、無冠の「前竜王」という肩書きになるが、3か月後の1991年2月の棋王戦で南芳一から3-0でタイトルを奪取し、それ以降は無冠となったことがなく(2008年12月現在)、また、肩書きとして段位を名乗ったのは竜王戦挑戦時の六段が最後である。
1992年度、王座を福崎文吾から奪取して、ここから長い王座戦連覇が始まる[10]。竜王にも復位し、自身初の三冠となる。
1993年度、棋聖、王位を奪取して、五冠となるが、竜王を佐藤康光に奪われ四冠に後退する。
1994年度には、前年に史上最年長名人の記録を達成した米長邦雄から、名人位を奪取し、さらには竜王を佐藤から奪還して史上初の六冠王となる。残るタイトルは、王将ただ1つとなったが、王将リーグは5勝1敗で郷田と並んで終え、プレーオフに勝利して王将挑戦権を獲得する。
そして、1995年1月からの第44期王将戦で、全冠制覇をかけて谷川王将に挑むことになる。
王将戦七番勝負はフルセットの戦いとなり、その間、同時進行していた棋王戦五番勝負では3-0のストレート勝ちで早々と防衛を決めていた。
王将戦最終第7局では、千日手指し直し[11]の末、敗退。谷川によって、史上初の全冠制覇を目前で阻止された[12]。この第7局の2日目当日(1995年3月24日)、対局場である青森県・奥入瀬のホテルには、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた。対局終了後、カメラや質問が主に敗者に向けられたというのも、異例のことであった。
しかし、それから1年間、羽生は全てのタイトルを防衛する。なお、これらの防衛戦の間に通算タイトル獲得数が谷川の20期(当時)を超え、大山、中原に次ぐ歴代3位となっている。
さらに、第45期王将リーグも5勝1敗の1位で抜けて、谷川王将に2年連続挑戦し、ついに1996年2月14日、4-0のストレートで王将を奪取し、七冠独占の偉業を成し遂げた。タイトルが7つになってからの全冠制覇は史上初の快挙で、翌日の新聞の一面を飾ったり、終局直後に生中継によるニュース速報が行われるなど、棋界にとどまらず社会全体で大々的に採り上げられた。直後に棋王戦防衛にも成功(相手は高橋道雄)したので、年度の全7タイトル制覇も達成したことになる。この年度は、テレビ棋戦のNHK杯、早指し将棋選手権でも優勝したので「九冠」とも言われた。しかも、年度勝率は、タイトル戦続きで強豪との対局がほとんどであったにもかかわらず0.8364(歴代2位)という驚異的な数字であった[13]。
七冠王として迎えた新年度(1996年度)の最初のタイトル戦は、小学生時代からのライバル・森内俊之との初のタイトル戦となる名人戦であった。この七番勝負は4-1で防衛に成功し、内容的にも、両者、力を出し合った名局揃いという評価を受ける。
次の防衛戦は、2年連続で三浦弘行[14]を挑戦者に迎えた第67期棋聖戦であった。フルセットの戦いの末、三浦に2-3で敗れ、全冠独占は167日(1996年2月14日-7月30日)で幕を降ろした[15]。
三浦から棋聖位を奪われたのと同年の第9期竜王戦と、翌1997年第55期名人戦の2つのビッグタイトル戦で、いずれも谷川にタイトルを奪われ、四冠に後退[16]。1997年度は、NHK杯決勝で村山聖に勝って4度目の優勝をしたが、これが二人の最後の対局となった(約5ヵ月後の1998年8月8日に村山が死去)。
2003年度の竜王戦、王将戦、そして2004年の名人戦で、いずれも森内に立て続けにタイトルを奪われ、永世竜王・永世名人資格獲得を逸する[17]ばかりか、羽生のタイトルは王座の一冠のみとなった。羽生が一冠のみとなるのは11年9か月ぶりのことである。この時点で、棋界の構図は、森内竜王名人(王将と合わせて三冠)、谷川王位棋王(=二冠)、佐藤(康)棋聖、羽生王座となり、この瞬間、羽生は棋界最強の座を奪われただけでなく無冠の危機さえ迎えたかに見えた。しかし、その2004年度中に王位を奪還し、王座一冠の時期は89日で終わる(2004年6月11日 - 2004年9月8日)。さらに2004年度中に王将、棋王を奪還して四冠となり、あっという間に再び7タイトルの過半数を占める。
2005年度、王座戦で14連覇を果たし、1959年~1971年にかけて大山康晴が名人戦で樹立した同一タイトル連覇記録13連覇を抜く[18]。
2005年度のA級順位戦では8勝1敗の成績だったにもかかわらず谷川とのプレーオフとなり、結果敗れて名人挑戦を逃した。8勝して名人挑戦できなかったのは唯一のケースである。なお、このプレーオフの一局は結果的に「詰ましにいって詰まなかった」ものだったが、内容は高く評価され、第34回将棋大賞で創設されたばかりの「名局賞」を、谷川とともに受賞している。
2006年度、王座防衛の時点で通算タイトル獲得数を65期とし、中原誠(通算64期)を抜いて歴代単独2位となる。
2007年、深浦康市に王位を奪取されるが、最終第七局の終盤戦の内容が評価され、2年連続で将棋大賞の名局賞を受賞する。
2007年12月20日、最年少、最速、最高勝率で史上8人目の通算1000勝(特別将棋栄誉賞)を達成[19]。
2008年2月28日、史上2人目の棋戦優勝100回(タイトル獲得68期、一般棋戦優勝32回)を達成[20]。
2008年6月17日、第66期名人戦第6局で森内俊之名人を破り、名人位と三冠に復帰。通算5期獲得により十九世名人の資格を得るとともに、史上初の永世六冠(永世名人、永世棋聖、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世王将)を達成[21]。
その2日後の2008年6月19日、第49期王位戦挑戦者決定戦で橋本崇載を破って深浦へのリターンマッチの権利を得、タイトル4連続挑戦(棋王、名人、棋聖、王位)[22]。
2008年12月18日、第21期竜王戦における渡辺明との七番勝負は、どちらが勝っても初代永世竜王となる戦いとして注目を集めたが敗退し、一気の永世七冠達成はならなかった。3連勝4連敗であったが、これは将棋史上初のことである[23]。
棋風
・大山康晴の力強い受け、中原誠の自然流の攻め、加藤一二三の重厚な攻め、谷川浩司の光速の寄せ、米長邦雄の泥沼流の指し回し、佐藤康光の緻密流の攻め、森内俊之の鉄板流の受け、といった歴代名人の長所を状況に応じて指し手に反映させることが出来ることから、「歴代名人の長所をすべて兼ね備えた男」とも評される。
昇段履歴
在籍クラス
記録(歴代1位のもの)
その他表彰