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将棋の起源は、古代インドのチャトランガ(シャトランガ)であるといわれており、ユーラシア大陸の各地に広がってさまざまな類似の遊戯に発達したと考えられている。西洋にはチェス、中国にはシャンチー、朝鮮半島にはチャンギ(將棋:장기)、タイにはマークルックがある。
将棋がいつ頃日本に伝わったのかは、明らかになっていない。囲碁の碁盤が正倉院の宝物殿に納められており、囲碁の伝来が奈良時代前後とほぼ確定づけられるのとは対照的である。伝説としては、将棋は周の武帝が作った[6]、吉備真備が唐に渡来したときに将棋を伝えた[7]などといわれているが、後者に関しては、江戸時代初めに将棋の権威付けのために創作された説であると考えられている。
日本への伝来時期はいくつかの説があるが、早いもので6世紀ごろと考えられている[8]。このとき伝来した将棋は、現在のような五角形の駒形ではなく、古代インドのチャトランガの流れを汲む立像型の駒であったとされている。チェスでは古い駒ほど写実的である。ただしこの説の問題点として、現在までそのような形の将棋は発見されていないことが挙げられる。
時期の遅い説としては、平安時代に入ってからの伝来であったとする説がある。中国のシャンチーや朝鮮のチャンギがこの時期に日本に伝わったというものであるが、これらは駒を線の交点に置くことなど将棋との違いは大きく疑問も残る。これに対し、東南アジアのマークルックに銀将と同じ動きの駒があることから、近年はこの系統の盤戯が中国において改良され日本に伝来したとする説もある[9]。当時の造船技術では東南アジアから直接日本へ伝わったと考えることは難しいものの、中国を舞台とした日本と東南アジアの中継貿易は行われていたことから中国経由の伝来は十分に考えられる[10]。いずれにしても物証が乏しく、はっきりしたことは分かっていない。
将棋の存在を知る文献資料として最古のものに、藤原行成(ふじわらのゆきなり(こうぜい))が著した『麒麟抄』があり、この第7巻には駒の字の書き方が記されているが、この記述は後世に付け足されたものであるという考え方が主流である。藤原明衡(ふじわらのあきひら)の著とされる『新猿楽記』(1058年~1064年)にも将棋に関する記述があり、こちらが最古の文献資料と見なされている。
考古学史料として最古のものは、奈良県の興福寺境内から発掘された駒16点[11]で、同時に天喜6年(1058年)と書かれた木簡が出土したことから、その時代のものであると考えられている。この当時の駒は、木簡を切って作られ、直接その上に文字を書いたとみられる簡素なものであるが、すでに現在の駒と同じ五角形をしていた。また、前述の『新猿楽記』の記述と同時期のものであり、文献上でも裏づけが取られている。
三善為康によって作られたとされる『掌中歴』『懐中歴』をもとに、1210年~1221年に編纂されたと推定される習俗事典『二中歴』に、大小2種類の将棋がとりあげられている。後世の将棋類と混同しないよう、これらは現在では平安将棋(または平安小将棋)および平安大将棋と呼ばれている[12]。平安将棋は現在の将棋の原型となるものであるが、相手を玉将1枚にしても勝ちになると記述されており、この当時の将棋には持ち駒の概念がなかったことがうかがえる。
これらの将棋に使われていた駒は、平安将棋にある玉将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵と平安大将棋のみにある銅将・鉄将・横行・猛虎・飛龍・奔車・注人である。平安将棋の駒はチャトランガの駒(将・象・馬・車・兵)をよく保存しており、上に仏教の五宝と示しているといわれる玉・金・銀・桂・香の文字を重ねたものとする説がある[13]。さらに、チャトランガはその成立から戦争を模したゲームで駒の取り捨てであるが、平安将棋は持ち駒使用になっていたとする木村義徳の説もある。
これは世界の将棋類で同様の傾向が見られるようだが、時代が進むにつれて必勝手順が見つかるようになり、駒の利きを増やしたり駒の種類を増やしたりして、ルールを改めることが行われるようになった。日本将棋も例外ではない。
13世紀ごろには平安大将棋に駒数を増やした大将棋が遊ばれるようになり、大将棋の飛車・角行・醉象を平安将棋に取り入れた小将棋も考案された。15世紀ごろには複雑になりすぎた大将棋のルールを簡略化した中将棋が考案され、現在に至っている。16世紀ごろには小将棋から醉象が除かれて現在の本将棋になったと考えられる。元禄年間の1696年に出版された『諸象戯図式』によると、天文年中(1532年-1555年)に後奈良天皇が日野晴光と伊勢貞孝に命じて、小将棋から醉象の駒を除かせたとあるが、真偽のほどは定かではない[14]。
なお、16世紀後半の戦国時代のものとされる一乗谷朝倉氏遺跡から、174枚もの駒が出土している。その大半は歩兵の駒であるが、1枚だけ醉象の駒が見られ、この時期は醉象を含む将棋と含まない将棋とが混在していたと推定されている。
将棋史上特筆すべきこととして、日本ではこの時期に独自に、日本将棋では相手側から取った駒を自分側の駒として盤上に打って再利用できるルール、すなわち持ち駒の使用が始まった。持ち駒の採用は本将棋が考案された16世紀ごろであろうと考えられているが、平安小将棋のころから持ち駒ルールがあったとする説もある。近年有力な説としては、1300年ごろに書かれた『普通唱導集』(村山修一、法藏館、ISBN 9784831875587)に将棋指しへの追悼文として「桂馬を飛ばして銀に替ふ」と駒の交換を示す文句があり、この時期には持ち駒の概念があったものとされている[15]。
持ち駒の起源については、小将棋または本将棋において、駒の取り捨てでは双方が駒を消耗し合い駒枯れを起こしやすく、勝敗がつかなくなることが多かったために、相手の駒を取っても自分の持ち駒として使うことができるようにして、勝敗をつけやすくした、という説が一般的である[16]。
江戸時代に入り、さらに駒数を増やした将棋類が考案されるようになった。天竺大将棋・大大将棋・摩訶大大将棋・泰将棋(大将棋とも。混同を避けるために「泰」が用いられた)・大局将棋などである。ただし、これらの将棋はごく一部を除いて実際に遊ばれることはなかったと考えられている。 江戸人の遊び心がこうした多様な将棋を考案した基盤には、江戸時代に将棋が庶民のゲームとして広く普及、愛好されていた事実がある。
将棋を素材とした川柳の多さなど多くの史料が物語っており、現在よりも日常への密着度は高かった。このことが明治以後の発展につながってゆく。
将棋(本将棋)は、囲碁とともに、江戸時代に幕府の公認となった。1612年(慶長17年)に、幕府は将棋指しの加納算砂(本因坊算砂)・大橋宗桂(大橋姓は没後)らに俸禄を支給することを決定し、やがて彼ら家元は、碁所・将棋所を自称するようになった。初代大橋宗桂は50石5人扶持を賜わっている。寛永年間(1630年頃)には将軍御前で指す「御城将棋」が行われるようになった。八代将軍徳川吉宗のころには、年に1度、11月17日に御城将棋を行うことを制度化し、現在ではこの日付(11月17日)が「将棋の日」となっている。
将棋の家元である名人らには俸禄が支払われた。江戸時代を通じて、名人は大橋家・大橋分家・伊藤家の世襲のものとなっていった。現在でも名人の称号は「名人戦」というタイトルに残されている。名人を襲位した将棋指しは、江戸幕府に詰将棋の作品集を献上するのがならわしとなった。
名人を世襲しなかった将棋指しの中にも、天才が現れるようになった。伊藤看寿は江戸時代中期に伊藤家に生まれ、名人候補として期待されたが、早逝したため名人を襲位することはなかった(没後に名人を贈られている)。看寿は詰将棋の創作に優れ、作品集『将棋図巧』は現在でも最高峰の作品として知られている。江戸末期には天野宗歩が現れ、在野の棋客であったため名人位には縁がなかったが、「実力十三段」と恐れられ、のちに「棋聖」と呼ばれるようになった。宗歩を史上最強の将棋指しの一人に数える者は少なくない。
江戸幕府が崩壊すると、将棋三家に俸禄が支給されなくなり、将棋の家元制も力を失っていった。家元の三家が途絶えたため、名人位は推薦制へ移行した。アマチュアの将棋人気は明治に入っても継続しており、日本各地で将棋会などが催され、風呂屋や理髪店などの人の集まる場所での縁台将棋も盛んに行われていたが、19世紀末には一握りの高段者を除いて、専業プロとして将棋で生活していくことはできなくなったといわれている。
1899年(明治32年)ごろから、新聞に将棋の実戦棋譜が掲載されるようになり、高段者が新聞への掲載を目的に合同するようになった。1909年(明治42年)に将棋同盟社が結成され、1924年(大正13年)には関根金次郎十三世名人のもとに将棋三派が合同して東京将棋連盟が結成された。これが現在の日本将棋連盟の前身で、連盟はこの年を創立の年としている。
第二次世界大戦後、日本将棋連盟に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) より呼び出しがかかった。これは武道などを含めた封建的思想の強い競技や娯楽の排除を狙ったものだが、連盟は知識豊富で勝負勘に優れた関西本部長代理の升田幸三を派遣する。その席でGHQは「将棋はチェスとは違い、敵から奪った駒を自軍の兵として使う。これは捕虜虐待という国際法違反である野蛮なゲームであるために禁止にすべきである」と難癖をつけてきた。それに対して升田は「チェスは捕虜を殺害している。これこそが捕虜虐待である。将棋は適材適所の働き場所を与えている。常に駒が生きていて、それぞれの能力を尊重しようとする民主主義の正しい思想である」「男女同権といっているが、チェスではキングが危機に陥った時にはクイーンを盾にしてまで逃げようとする」と反論。この発言により将棋は禁止されることを回避することができた。[17]
連盟結成以降の詳細は各記事にゆずるが、1937年の名人戦を皮切りに7つのタイトル戦を含む10以上の棋戦が開催されている。また、女性のプロ(女流棋士)も誕生し、1974年には最初の棋戦である女流名人位戦が開催され、現在は5タイトル戦とその他いくつかの公式戦が行われている。この期間に定跡が整備され、とくにプロレベルの序盤は高度に精密化された。将棋自身も賭博の対象から純粋なマインドスポーツへと変化している。プロの発展とともに、将棋のアマチュア棋戦も整備され、日本全国からアマチュアの強豪選手が集まる大会が年間に数回開催されている。
また、将棋は二人零和有限確定完全情報ゲームに分類されることから、人工知能の対象となり、コンピュータ将棋が発展した。2008年5月には、この年に開催された第18回世界コンピュータ将棋選手権での優勝・準優勝将棋ソフトがそれぞれトップクラスのアマチュア棋士に完勝しており、現在のコンピュータ将棋の実力はアマチュアトップ~プロの最底辺に達しているとされている。
将棋は日本で独自の発展を遂げた遊戯であり、駒の種類が漢字で書かれて区別されているなどの理由で、日本国外への普及の妨げになっていた。囲碁は国際的に(多少の差異はあるが)ルールが統一されていること、白黒の石でゲームを行うこと、他の国の固有のゲームとは類似性が見られない(他国ではチェスやチェス類のゲームがすでに存在していることが多い)ゲームであるなどの理由で、世界的に普及が進んでいるのとは対照的である。
しかし、1990年代になると将棋の日本国外への普及活動が本格的に行われるようになった。特に中華人民共和国、中でも上海への普及が盛んで、『近代将棋』2006年1月号によると上海の将棋人口は12万人とのことである。非漢字圏への普及は比較的遅れているが、駒の名前の代わりに方向を示した符号を書いた駒を利用するなどの方策がとられている。
『レジャー白書』(財団法人社会経済生産性本部)によると、1年に1回以上将棋を指す15歳以上のいわゆる「将棋人口」は、1985年度の1680万人から、2005年度840万人、2006年度710万人と大幅に減少し、漸減傾向が続いている。
将棋人口が半減した上記の期間に、将棋が一般メディアに取り上げられたことは何度かある。代表的なものでは、羽生善治の七冠達成(1996年)、将棋を題材としたNHK朝の連続テレビ小説『ふたりっ子』の放送(1996年)、中原誠と林葉直子の不倫報道(1998年)、瀬川晶司のプロ編入試験(2005年)、名人戦の移管問題(2006年)、羽生善治の最年少で1000勝(2007年)などである。しかしいずれも「将棋ブーム」を生むには至らず、取り上げ方によってはファン離れを加速するものとなっているものもある。
2006年版「レジャー白書」では囲碁は60代、将棋は10代に人気があるという結果が出ている。
また、1996年頃からJava将棋やザ・グレート将棋など、盤駒を利用しなくともインターネットを通じて対局ができるインターネット将棋が普及しはじめ、現在は、1998年に運営を開始した将棋倶楽部24や、近代将棋道場、Yahoo!ゲームの将棋などによる対局が広く行われるようになっている。
・最近、「情熱大陸」見てから、将棋に興味が出てきまして、ちょっと調べてみました。