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古代ボクシング
そもそもボクシングは、人間が二足歩行を始めてから既に会得していた攻撃手段だと言われている。
紀元前4000年ごろの古代エジプトの象形文字からも軍隊で使われていたのが判読されており、クレタ島の紀元前3000年ごろのエーゲ文明の遺跡からもボクシングの図が書かれた壷が発見されている。恐らくこのころから競技に発展していったと思われる。
古代ギリシア語では握りしめた拳をPUGMEといい、それからPUXOS(箱)となった。古代オリンピックでは第23回大会から正式種目となり、オノマストスが月桂冠をうけた。この時代は全裸でオリーブ・オイルを塗り、拳には鋲を皮のバンテージのような物で包んだグローブのような物を着用、腕や肘でも攻撃できたようだ。この当時はラウンドは無く、どちらかが戦闘不能、またはギブアップ(右手の人差し指を天に突き上げるとギブアップになったらしい)で勝負がつく。この競技は第38回大会まで続けられた。この競技からパンクラチオンが生まれた。
ローマ時代に入ってギリシア語から羅: PUGILATUS(拳での戦い)、羅: PUGILISM(「ピュージリズム」)という言葉が生まれている。奴隷同士が鉄の鋲を打ち込んだセスタスという武器を拳に着けて、コロシアムなどで見せ物として行われるようになった。敗者は死亡、または再起不能になったと言われている。
正式な名称ではないが、あえてここでは仮に「中世ボクシング」と呼ぶ。
イタリアやイギリス、オランダなどヨーロッパを中心に、護身として、レクリエーションとして細々と行われていたようだが一般には定着しなかった。13世紀ごろのイタリアまたはイギリスの神父が「ボクシング」と名付け、近所の若者に教えたのが「ボクシング」という名称の始まりだという説もあるが、定かではない。
現在のボクシングのルーツは18世紀のイギリスのテムズ川オックスフォードシア村で誕生したジェームス・フィグ(James Figg、レスリング、フェンシングとくに棍棒術を得意とする)が1718年にロンドンで「ボクシング・アカデミー」(ジムの原型か?)を設立して貴族などにボクシングを教え始めた。彼が行った「ボクシング」とはベアナックル(素手)で行い、蹴りや投げ、締め、噛み付き、目つぶしがあるパンクラチオンのような物だった。フィグ自身も教える傍ら自ら「プライズ・ファイター」(つかまれないように頭髪を剃っていた)として腕自慢達を倒して賞金を稼ぎ、護身術としても優れていると認められたボクシングとともに名声を得てイギリス初のチャンピオンとなった。1730年36歳で引退し、1734年、39歳で死去した。
そしてフィグの後継者であったジャック・ブロートン(Jack Broughton)が、自ら保持するタイトルの防衛戦の時、相手を殺してしまったために、「ボクシングを普及させるのはこのような危険は廃さねばならない」と考え明確なルールを、近代ボクシング初となる7章のルールブック「ブロートン・コード」(Broughton’s Rule)に書き記し、1743年発表した。その内容はベルト以下への打撃の禁止・腰より下の抱込みの禁止・倒れた相手への攻撃禁止、ダウン後30秒以内に中央の所定の位置に立つ、リング(直径25フィートの円形、硬い土の上)などである。また貴族の練習の怪我防止用にマフラーという名のグローブを採用した。
1750年〜1790年、死者が多いためイギリスでボクシングが禁止される。
1811年のイギリス人チャンピオン、トム・クリブ対アメリカ合衆国トム・モリノーの再戦は2万5千人もの観衆がいた。
1814年にジョン・ジャクソン(チャンピオン)が英国ピュジリスト保護協会を設立し、1838年に「ロンドン・プライズリング・ルールズ」(29条)を発表した。それには、ベアナックルで行い、蹴り技の禁止・頭突きの禁止・目玉えぐりの禁止、ダウン者に30秒の休憩、所定の位置に8秒で戻るなどであった。
このころのボクシングはダウンごとに1ラウンドとし50ラウンドにも及ぶ場合があった。そのため序盤は拳や手首を痛めないように用心しながら、徐々に打ち合っていくというスタイルであった。
1856年フランスで八百長疑惑によりボクシングなどの興行がパリで全面禁止された。
1867年にロンドン・アマチュア・アスレチック・クラブのジョン・グラハム・チャンバースはルール保証人の第8世クィンズベリー侯爵ジョン・ショルト・ダグラスの名を冠した「クインズベリー・ルール」(Marquess of Queensberry Rule 12条)を発表した。それでは、投げ技が禁止された他、3分1ラウンドとしラウンド間に1分間の休憩をとるラウンド制、グローブの着用、ダウンした者が10秒以内に立ち上がれない場合はKO負けとすることが定められ、現在に通じるボクシングルールが確立した。ただし定着は遅れ以前の「ロンドン・プライズリング・ルールズ」についても1889年7月ジョン・ローレンス・サリバン(アメリカ合衆国のマサチューセッツ州出身、1858年10月15日生)がジェイク・ロドリゲスと行った防衛戦まで続いた。
1892年9月7日、ジョン・ローレンス・サリバン対ジェームス・J・コーベット(アメリカ合衆国のカリフォルニア州出身、1866年9月1日生、元銀行員)戦においてコーベットは当時のスタイル「スタンド・アンド・ファイト」ではなく「卑怯者の戦法」といわれた相手から距離をとってパンチをかわし、左の軽いジャブをあてるというスタイルでサリバンを21回KOし勝利をおさめた。
・21回ってwwwwww!!
「この当時はラウンドは無く、どちらかが戦闘不能、またはギブアップ(右手の人差し指を天に突き上げるとギブアップになったらしい)で勝負がつく。」古代ボクシング恐ろしいな。
「そもそもボクシングは、人間が二足歩行を始めてから既に会得していた攻撃手段だと言われている。」の部分かっこいい!!
史上最強の棋士については、将棋界・囲碁界で議論の絶えないところである。
将棋において最強候補は、最低でも数人はいる。どのような視点で見るかによって見解は異なり、1人に絞ることは不可能である。 例えば以下の棋士達はいずれも史上最強議論の常連である。
(上記のタイトル数は2008年7月現在)
宗英・宗歩に関しては現代の棋士に比べて知名度が圧倒的に劣るので議論になることは少ない。また日進月歩の定跡の進化の中で情報戦の様相を呈している現代将棋との棋譜からの比較は困難である。しかし天野宗歩は伝説的な棋士で、棋譜も多数残されている。当時の将棋界では傑出した実力者であったため、現存する棋譜は駒落ちの手合割のものが多いが、その実力は十分に窺うことが出来る。内藤國雄など現代の棋士の多くが宗歩の将棋を絶賛している。一方宗英も、「天野宗歩は強い。しかし一番強いのは宗英だ」と升田幸三がよく言っていたと伝えられるほどの存在である(なお宗英・宗歩と七世名人伊藤宗看を加えた三者は、「三英傑」とも呼ばれる)。
木村は名人になってから10年の間、平手で負けたのは一局のみ。当時の強さは驚異的で現在では考えられないほどの国民的ヒーローでもあった。今に残る木村定跡をはじめ将棋界のレベルの向上に大きく貢献し名人の権威を高めた。
升田は史上初の三冠を達成し、主に序盤の戦い方に革命をもたらし「将棋というゲームに寿命があるなら、その寿命を300年縮めた男」と評された。健康に問題があったこともあり、実績面では大山に大きく遅れをとってしまったが人気は高く、その現代的な感覚で今でもファンが多い。休場は多いものの1979年に引退するまでA級以上に連続31期とどまった。
実力制名人になった昭和以降で一番長期にわたって強さを発揮したのは疑いもなく大山である。当時は今よりはるかにタイトルや対局数が少ない時代でありながら(初タイトル獲得時は二冠しかなく、全盛期に入った1963年にようやく五冠になった)、通算獲得タイトル数80期、棋戦優勝124回、通算勝数1433勝は現在に至るまで歴代1位。名人位18期、同一タイトル通算獲得20期(王将)をはじめすべてのタイトルで満遍なく強さを発揮した。全盛期の強さはまさに圧倒的で全冠(三、四、五冠)をとった期間も長い。1959年から66年にかけて全冠でなかったのは2期のみである。59年から71年までのタイトル戦68期のうち8割を越す56期を獲得している。72年無冠になったがその後も長くタイトルを争い59歳までタイトルを保持し(王将戦)、66歳になってもタイトルに挑戦(棋王戦)し、69歳で死去するまで連続45年44期A級に居続けた。羽生も著作『決断力』で「将棋史上最強の棋士が十五世名人の大山康晴先生であることは、誰もが認めるであろう。」と語っている。
中原は大山より24歳ほど年下であるが直接対決では(ピークを過ぎていたとはいえ)大山を圧倒した点は光る(中原107-55大山)。1968年には歴代1位となる年度最高勝率.855を達成し10年連続で勝率7割を超えた。2007年9月には史上二人目となる通算1300勝を達成している。獲得タイトル数64は大山、羽生に次いで歴代三位であるが全冠は達成していない。
現在もタイトル数を増やしており特に熱い期待がもたれているのは羽生である。1996年2月から7月まで史上初となる七冠を独占した。現時点までの獲得タイトル数は70期(2008年7月現在)で歴代2位。また同一タイトル(王座位)を16期連続して保持している(歴代1位)。獲得賞金も10年連続通算14回首位を保持しており(2007年分まで)今後どこまで記録を伸ばせるか注目されている。
・ど素人の僕から見れば、羽生さんが最強だと思っていましたが、他にもこんな凄い人がたくさんいたとは・・・
最強が誰かなんて選ぶの難しいっす!!
将棋の起源は、古代インドのチャトランガ(シャトランガ)であるといわれており、ユーラシア大陸の各地に広がってさまざまな類似の遊戯に発達したと考えられている。西洋にはチェス、中国にはシャンチー、朝鮮半島にはチャンギ(將棋:장기)、タイにはマークルックがある。
将棋がいつ頃日本に伝わったのかは、明らかになっていない。囲碁の碁盤が正倉院の宝物殿に納められており、囲碁の伝来が奈良時代前後とほぼ確定づけられるのとは対照的である。伝説としては、将棋は周の武帝が作った[6]、吉備真備が唐に渡来したときに将棋を伝えた[7]などといわれているが、後者に関しては、江戸時代初めに将棋の権威付けのために創作された説であると考えられている。
日本への伝来時期はいくつかの説があるが、早いもので6世紀ごろと考えられている[8]。このとき伝来した将棋は、現在のような五角形の駒形ではなく、古代インドのチャトランガの流れを汲む立像型の駒であったとされている。チェスでは古い駒ほど写実的である。ただしこの説の問題点として、現在までそのような形の将棋は発見されていないことが挙げられる。
時期の遅い説としては、平安時代に入ってからの伝来であったとする説がある。中国のシャンチーや朝鮮のチャンギがこの時期に日本に伝わったというものであるが、これらは駒を線の交点に置くことなど将棋との違いは大きく疑問も残る。これに対し、東南アジアのマークルックに銀将と同じ動きの駒があることから、近年はこの系統の盤戯が中国において改良され日本に伝来したとする説もある[9]。当時の造船技術では東南アジアから直接日本へ伝わったと考えることは難しいものの、中国を舞台とした日本と東南アジアの中継貿易は行われていたことから中国経由の伝来は十分に考えられる[10]。いずれにしても物証が乏しく、はっきりしたことは分かっていない。
将棋の存在を知る文献資料として最古のものに、藤原行成(ふじわらのゆきなり(こうぜい))が著した『麒麟抄』があり、この第7巻には駒の字の書き方が記されているが、この記述は後世に付け足されたものであるという考え方が主流である。藤原明衡(ふじわらのあきひら)の著とされる『新猿楽記』(1058年~1064年)にも将棋に関する記述があり、こちらが最古の文献資料と見なされている。
考古学史料として最古のものは、奈良県の興福寺境内から発掘された駒16点[11]で、同時に天喜6年(1058年)と書かれた木簡が出土したことから、その時代のものであると考えられている。この当時の駒は、木簡を切って作られ、直接その上に文字を書いたとみられる簡素なものであるが、すでに現在の駒と同じ五角形をしていた。また、前述の『新猿楽記』の記述と同時期のものであり、文献上でも裏づけが取られている。
三善為康によって作られたとされる『掌中歴』『懐中歴』をもとに、1210年~1221年に編纂されたと推定される習俗事典『二中歴』に、大小2種類の将棋がとりあげられている。後世の将棋類と混同しないよう、これらは現在では平安将棋(または平安小将棋)および平安大将棋と呼ばれている[12]。平安将棋は現在の将棋の原型となるものであるが、相手を玉将1枚にしても勝ちになると記述されており、この当時の将棋には持ち駒の概念がなかったことがうかがえる。
これらの将棋に使われていた駒は、平安将棋にある玉将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵と平安大将棋のみにある銅将・鉄将・横行・猛虎・飛龍・奔車・注人である。平安将棋の駒はチャトランガの駒(将・象・馬・車・兵)をよく保存しており、上に仏教の五宝と示しているといわれる玉・金・銀・桂・香の文字を重ねたものとする説がある[13]。さらに、チャトランガはその成立から戦争を模したゲームで駒の取り捨てであるが、平安将棋は持ち駒使用になっていたとする木村義徳の説もある。
これは世界の将棋類で同様の傾向が見られるようだが、時代が進むにつれて必勝手順が見つかるようになり、駒の利きを増やしたり駒の種類を増やしたりして、ルールを改めることが行われるようになった。日本将棋も例外ではない。
13世紀ごろには平安大将棋に駒数を増やした大将棋が遊ばれるようになり、大将棋の飛車・角行・醉象を平安将棋に取り入れた小将棋も考案された。15世紀ごろには複雑になりすぎた大将棋のルールを簡略化した中将棋が考案され、現在に至っている。16世紀ごろには小将棋から醉象が除かれて現在の本将棋になったと考えられる。元禄年間の1696年に出版された『諸象戯図式』によると、天文年中(1532年-1555年)に後奈良天皇が日野晴光と伊勢貞孝に命じて、小将棋から醉象の駒を除かせたとあるが、真偽のほどは定かではない[14]。
なお、16世紀後半の戦国時代のものとされる一乗谷朝倉氏遺跡から、174枚もの駒が出土している。その大半は歩兵の駒であるが、1枚だけ醉象の駒が見られ、この時期は醉象を含む将棋と含まない将棋とが混在していたと推定されている。
将棋史上特筆すべきこととして、日本ではこの時期に独自に、日本将棋では相手側から取った駒を自分側の駒として盤上に打って再利用できるルール、すなわち持ち駒の使用が始まった。持ち駒の採用は本将棋が考案された16世紀ごろであろうと考えられているが、平安小将棋のころから持ち駒ルールがあったとする説もある。近年有力な説としては、1300年ごろに書かれた『普通唱導集』(村山修一、法藏館、ISBN 9784831875587)に将棋指しへの追悼文として「桂馬を飛ばして銀に替ふ」と駒の交換を示す文句があり、この時期には持ち駒の概念があったものとされている[15]。
持ち駒の起源については、小将棋または本将棋において、駒の取り捨てでは双方が駒を消耗し合い駒枯れを起こしやすく、勝敗がつかなくなることが多かったために、相手の駒を取っても自分の持ち駒として使うことができるようにして、勝敗をつけやすくした、という説が一般的である[16]。
江戸時代に入り、さらに駒数を増やした将棋類が考案されるようになった。天竺大将棋・大大将棋・摩訶大大将棋・泰将棋(大将棋とも。混同を避けるために「泰」が用いられた)・大局将棋などである。ただし、これらの将棋はごく一部を除いて実際に遊ばれることはなかったと考えられている。 江戸人の遊び心がこうした多様な将棋を考案した基盤には、江戸時代に将棋が庶民のゲームとして広く普及、愛好されていた事実がある。
将棋を素材とした川柳の多さなど多くの史料が物語っており、現在よりも日常への密着度は高かった。このことが明治以後の発展につながってゆく。
将棋(本将棋)は、囲碁とともに、江戸時代に幕府の公認となった。1612年(慶長17年)に、幕府は将棋指しの加納算砂(本因坊算砂)・大橋宗桂(大橋姓は没後)らに俸禄を支給することを決定し、やがて彼ら家元は、碁所・将棋所を自称するようになった。初代大橋宗桂は50石5人扶持を賜わっている。寛永年間(1630年頃)には将軍御前で指す「御城将棋」が行われるようになった。八代将軍徳川吉宗のころには、年に1度、11月17日に御城将棋を行うことを制度化し、現在ではこの日付(11月17日)が「将棋の日」となっている。
将棋の家元である名人らには俸禄が支払われた。江戸時代を通じて、名人は大橋家・大橋分家・伊藤家の世襲のものとなっていった。現在でも名人の称号は「名人戦」というタイトルに残されている。名人を襲位した将棋指しは、江戸幕府に詰将棋の作品集を献上するのがならわしとなった。
名人を世襲しなかった将棋指しの中にも、天才が現れるようになった。伊藤看寿は江戸時代中期に伊藤家に生まれ、名人候補として期待されたが、早逝したため名人を襲位することはなかった(没後に名人を贈られている)。看寿は詰将棋の創作に優れ、作品集『将棋図巧』は現在でも最高峰の作品として知られている。江戸末期には天野宗歩が現れ、在野の棋客であったため名人位には縁がなかったが、「実力十三段」と恐れられ、のちに「棋聖」と呼ばれるようになった。宗歩を史上最強の将棋指しの一人に数える者は少なくない。
江戸幕府が崩壊すると、将棋三家に俸禄が支給されなくなり、将棋の家元制も力を失っていった。家元の三家が途絶えたため、名人位は推薦制へ移行した。アマチュアの将棋人気は明治に入っても継続しており、日本各地で将棋会などが催され、風呂屋や理髪店などの人の集まる場所での縁台将棋も盛んに行われていたが、19世紀末には一握りの高段者を除いて、専業プロとして将棋で生活していくことはできなくなったといわれている。
1899年(明治32年)ごろから、新聞に将棋の実戦棋譜が掲載されるようになり、高段者が新聞への掲載を目的に合同するようになった。1909年(明治42年)に将棋同盟社が結成され、1924年(大正13年)には関根金次郎十三世名人のもとに将棋三派が合同して東京将棋連盟が結成された。これが現在の日本将棋連盟の前身で、連盟はこの年を創立の年としている。
第二次世界大戦後、日本将棋連盟に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) より呼び出しがかかった。これは武道などを含めた封建的思想の強い競技や娯楽の排除を狙ったものだが、連盟は知識豊富で勝負勘に優れた関西本部長代理の升田幸三を派遣する。その席でGHQは「将棋はチェスとは違い、敵から奪った駒を自軍の兵として使う。これは捕虜虐待という国際法違反である野蛮なゲームであるために禁止にすべきである」と難癖をつけてきた。それに対して升田は「チェスは捕虜を殺害している。これこそが捕虜虐待である。将棋は適材適所の働き場所を与えている。常に駒が生きていて、それぞれの能力を尊重しようとする民主主義の正しい思想である」「男女同権といっているが、チェスではキングが危機に陥った時にはクイーンを盾にしてまで逃げようとする」と反論。この発言により将棋は禁止されることを回避することができた。[17]
連盟結成以降の詳細は各記事にゆずるが、1937年の名人戦を皮切りに7つのタイトル戦を含む10以上の棋戦が開催されている。また、女性のプロ(女流棋士)も誕生し、1974年には最初の棋戦である女流名人位戦が開催され、現在は5タイトル戦とその他いくつかの公式戦が行われている。この期間に定跡が整備され、とくにプロレベルの序盤は高度に精密化された。将棋自身も賭博の対象から純粋なマインドスポーツへと変化している。プロの発展とともに、将棋のアマチュア棋戦も整備され、日本全国からアマチュアの強豪選手が集まる大会が年間に数回開催されている。
また、将棋は二人零和有限確定完全情報ゲームに分類されることから、人工知能の対象となり、コンピュータ将棋が発展した。2008年5月には、この年に開催された第18回世界コンピュータ将棋選手権での優勝・準優勝将棋ソフトがそれぞれトップクラスのアマチュア棋士に完勝しており、現在のコンピュータ将棋の実力はアマチュアトップ~プロの最底辺に達しているとされている。
将棋は日本で独自の発展を遂げた遊戯であり、駒の種類が漢字で書かれて区別されているなどの理由で、日本国外への普及の妨げになっていた。囲碁は国際的に(多少の差異はあるが)ルールが統一されていること、白黒の石でゲームを行うこと、他の国の固有のゲームとは類似性が見られない(他国ではチェスやチェス類のゲームがすでに存在していることが多い)ゲームであるなどの理由で、世界的に普及が進んでいるのとは対照的である。
しかし、1990年代になると将棋の日本国外への普及活動が本格的に行われるようになった。特に中華人民共和国、中でも上海への普及が盛んで、『近代将棋』2006年1月号によると上海の将棋人口は12万人とのことである。非漢字圏への普及は比較的遅れているが、駒の名前の代わりに方向を示した符号を書いた駒を利用するなどの方策がとられている。
『レジャー白書』(財団法人社会経済生産性本部)によると、1年に1回以上将棋を指す15歳以上のいわゆる「将棋人口」は、1985年度の1680万人から、2005年度840万人、2006年度710万人と大幅に減少し、漸減傾向が続いている。
将棋人口が半減した上記の期間に、将棋が一般メディアに取り上げられたことは何度かある。代表的なものでは、羽生善治の七冠達成(1996年)、将棋を題材としたNHK朝の連続テレビ小説『ふたりっ子』の放送(1996年)、中原誠と林葉直子の不倫報道(1998年)、瀬川晶司のプロ編入試験(2005年)、名人戦の移管問題(2006年)、羽生善治の最年少で1000勝(2007年)などである。しかしいずれも「将棋ブーム」を生むには至らず、取り上げ方によってはファン離れを加速するものとなっているものもある。
2006年版「レジャー白書」では囲碁は60代、将棋は10代に人気があるという結果が出ている。
また、1996年頃からJava将棋やザ・グレート将棋など、盤駒を利用しなくともインターネットを通じて対局ができるインターネット将棋が普及しはじめ、現在は、1998年に運営を開始した将棋倶楽部24や、近代将棋道場、Yahoo!ゲームの将棋などによる対局が広く行われるようになっている。
・最近、「情熱大陸」見てから、将棋に興味が出てきまして、ちょっと調べてみました。羽生善治(はぶ よしはる、1970年9月27日 - )は、将棋棋士。現在、4冠(名人、棋聖、王座、王将)。通算タイトル獲得数は歴代2位で、6つの永世称号(永世名人(十九世名人有資格者)・永世棋聖・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世王将)を保持している。永世竜王獲得もあと1期と迫っている。二上達也九段門下であり、棋士番号175である。数々の実績から将棋史上最強格の棋士の一人に挙げられる。羽生と同世代の棋士にはトップクラスの実力者が多く、「羽生世代」と称されている。
デビュー、そしてスターダムへ
デビュー直後の1986年度に、全棋士中で1位となる勝率(0.741)を記録し、将棋大賞の新人賞を受賞する。
羽生に追随してデビューしてきた同年代の強豪棋士達とともに、いわゆる「チャイルドブランド」[6]と呼ばれる新世代のグループを形成し、羽生は、その代表的存在として勝ち進む。
羽生を一気にスターダムへ押し上げることになったのは、五段時代の1988年度のNHK杯戦である。大山康晴、加藤一二三、谷川浩司(準決勝)、中原誠(決勝)と、4人の名人経験者を立て続けに下して優勝。まるで作ったかのような舞台設定で、これは多くの将棋ファンに対して羽生という棋士の存在を強烈に印象付けた。特に対加藤戦で放った▲5二銀は非常に有名であり、解説役で出演していた米長邦雄も驚嘆していた[7]。同年度は対局数、勝利数、勝率、連勝の記録4部門を独占(80局、64勝、0.800、18連勝)。4部門独占は、その後も他の棋士が達成していない大記録であり、また、将棋大賞の最優秀棋士賞を史上最年少(18歳)で受賞した。無冠の棋士が受賞したのも、史上初である。
1989年、タイトル戦初登場となる第2期竜王戦で初代竜王島朗から奪取し、史上最年少タイトル記録(当時)となる19歳2か月で竜王位に就く[8]。この年度は、先手番での勝率が9割を超えた[9]。
翌年11月に谷川に敗れ、無冠の「前竜王」という肩書きになるが、3か月後の1991年2月の棋王戦で南芳一から3-0でタイトルを奪取し、それ以降は無冠となったことがなく(2008年12月現在)、また、肩書きとして段位を名乗ったのは竜王戦挑戦時の六段が最後である。
1992年度、王座を福崎文吾から奪取して、ここから長い王座戦連覇が始まる[10]。竜王にも復位し、自身初の三冠となる。
1993年度、棋聖、王位を奪取して、五冠となるが、竜王を佐藤康光に奪われ四冠に後退する。
1994年度には、前年に史上最年長名人の記録を達成した米長邦雄から、名人位を奪取し、さらには竜王を佐藤から奪還して史上初の六冠王となる。残るタイトルは、王将ただ1つとなったが、王将リーグは5勝1敗で郷田と並んで終え、プレーオフに勝利して王将挑戦権を獲得する。
そして、1995年1月からの第44期王将戦で、全冠制覇をかけて谷川王将に挑むことになる。
王将戦七番勝負はフルセットの戦いとなり、その間、同時進行していた棋王戦五番勝負では3-0のストレート勝ちで早々と防衛を決めていた。
王将戦最終第7局では、千日手指し直し[11]の末、敗退。谷川によって、史上初の全冠制覇を目前で阻止された[12]。この第7局の2日目当日(1995年3月24日)、対局場である青森県・奥入瀬のホテルには、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた。対局終了後、カメラや質問が主に敗者に向けられたというのも、異例のことであった。
しかし、それから1年間、羽生は全てのタイトルを防衛する。なお、これらの防衛戦の間に通算タイトル獲得数が谷川の20期(当時)を超え、大山、中原に次ぐ歴代3位となっている。
さらに、第45期王将リーグも5勝1敗の1位で抜けて、谷川王将に2年連続挑戦し、ついに1996年2月14日、4-0のストレートで王将を奪取し、七冠独占の偉業を成し遂げた。タイトルが7つになってからの全冠制覇は史上初の快挙で、翌日の新聞の一面を飾ったり、終局直後に生中継によるニュース速報が行われるなど、棋界にとどまらず社会全体で大々的に採り上げられた。直後に棋王戦防衛にも成功(相手は高橋道雄)したので、年度の全7タイトル制覇も達成したことになる。この年度は、テレビ棋戦のNHK杯、早指し将棋選手権でも優勝したので「九冠」とも言われた。しかも、年度勝率は、タイトル戦続きで強豪との対局がほとんどであったにもかかわらず0.8364(歴代2位)という驚異的な数字であった[13]。
七冠王として迎えた新年度(1996年度)の最初のタイトル戦は、小学生時代からのライバル・森内俊之との初のタイトル戦となる名人戦であった。この七番勝負は4-1で防衛に成功し、内容的にも、両者、力を出し合った名局揃いという評価を受ける。
次の防衛戦は、2年連続で三浦弘行[14]を挑戦者に迎えた第67期棋聖戦であった。フルセットの戦いの末、三浦に2-3で敗れ、全冠独占は167日(1996年2月14日-7月30日)で幕を降ろした[15]。
三浦から棋聖位を奪われたのと同年の第9期竜王戦と、翌1997年第55期名人戦の2つのビッグタイトル戦で、いずれも谷川にタイトルを奪われ、四冠に後退[16]。1997年度は、NHK杯決勝で村山聖に勝って4度目の優勝をしたが、これが二人の最後の対局となった(約5ヵ月後の1998年8月8日に村山が死去)。
2003年度の竜王戦、王将戦、そして2004年の名人戦で、いずれも森内に立て続けにタイトルを奪われ、永世竜王・永世名人資格獲得を逸する[17]ばかりか、羽生のタイトルは王座の一冠のみとなった。羽生が一冠のみとなるのは11年9か月ぶりのことである。この時点で、棋界の構図は、森内竜王名人(王将と合わせて三冠)、谷川王位棋王(=二冠)、佐藤(康)棋聖、羽生王座となり、この瞬間、羽生は棋界最強の座を奪われただけでなく無冠の危機さえ迎えたかに見えた。しかし、その2004年度中に王位を奪還し、王座一冠の時期は89日で終わる(2004年6月11日 - 2004年9月8日)。さらに2004年度中に王将、棋王を奪還して四冠となり、あっという間に再び7タイトルの過半数を占める。
2005年度、王座戦で14連覇を果たし、1959年~1971年にかけて大山康晴が名人戦で樹立した同一タイトル連覇記録13連覇を抜く[18]。
2005年度のA級順位戦では8勝1敗の成績だったにもかかわらず谷川とのプレーオフとなり、結果敗れて名人挑戦を逃した。8勝して名人挑戦できなかったのは唯一のケースである。なお、このプレーオフの一局は結果的に「詰ましにいって詰まなかった」ものだったが、内容は高く評価され、第34回将棋大賞で創設されたばかりの「名局賞」を、谷川とともに受賞している。
2006年度、王座防衛の時点で通算タイトル獲得数を65期とし、中原誠(通算64期)を抜いて歴代単独2位となる。
2007年、深浦康市に王位を奪取されるが、最終第七局の終盤戦の内容が評価され、2年連続で将棋大賞の名局賞を受賞する。
2007年12月20日、最年少、最速、最高勝率で史上8人目の通算1000勝(特別将棋栄誉賞)を達成[19]。
2008年2月28日、史上2人目の棋戦優勝100回(タイトル獲得68期、一般棋戦優勝32回)を達成[20]。
2008年6月17日、第66期名人戦第6局で森内俊之名人を破り、名人位と三冠に復帰。通算5期獲得により十九世名人の資格を得るとともに、史上初の永世六冠(永世名人、永世棋聖、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世王将)を達成[21]。
その2日後の2008年6月19日、第49期王位戦挑戦者決定戦で橋本崇載を破って深浦へのリターンマッチの権利を得、タイトル4連続挑戦(棋王、名人、棋聖、王位)[22]。
2008年12月18日、第21期竜王戦における渡辺明との七番勝負は、どちらが勝っても初代永世竜王となる戦いとして注目を集めたが敗退し、一気の永世七冠達成はならなかった。3連勝4連敗であったが、これは将棋史上初のことである[23]。
棋風
・大山康晴の力強い受け、中原誠の自然流の攻め、加藤一二三の重厚な攻め、谷川浩司の光速の寄せ、米長邦雄の泥沼流の指し回し、佐藤康光の緻密流の攻め、森内俊之の鉄板流の受け、といった歴代名人の長所を状況に応じて指し手に反映させることが出来ることから、「歴代名人の長所をすべて兼ね備えた男」とも評される。
昇段履歴
在籍クラス
記録(歴代1位のもの)
その他表彰